第10回 満州 日米対立の火種

 きょうの話の舞台は、日露戦争で戦場となった満州です。満州というのは、中国東北地方。清朝の時代、万里長城の海側の起点である山海関から東の地域、奉天省、吉林省、黒竜江省の三省を「東三省」と言いましたが、ここに満州族が多く住んでいたので付けられた地名です。そしてこの満州こそが、満州事変に始まり支那事変から太平洋戦争へと発展する、日本の「十五年戦争」の出発点だったのです。

 

 満州には、戦前住んでいらっしゃった方、あるいは兵隊として行かれた方、いろいろと思い出を持っていらっしゃる方が多いと思いますが、そうした方たちが懐かしい思い出として、大抵真っ先に挙げられるのが、広大な満州の原野を突っ走った特急「あじあ」号です。満鉄と言われた南満州鉄道会社が昭和九年十1月、大連と新京間、現在の長春の間七百一㌔を平均時速八十二・五㌔、最高時速百十㌔、八時間半で走らせた弾丸列車です。日本ではちょうど難工事の丹那トンネルが開通した頃で、国鉄の誇る特急「つばめ」の平均速度が六十七・二㌔、最高時速九十五㌔だったといいますから、大変な技術力でした。機関車も客車も車体は緑色、空気抵抗が少いように流線型です。「流線型」という言葉が流行語になったものですが、酒落た展望車に冷暖房完備のデラックスな客車。私たちが子供の頃'1度は乗ってみたいと思った憧れの列車でした。「あじあ」という名前は三万通の懸賞募集から選ばれたのだそうですが、満鉄の歌に「束より光は来る光をのせて東亜の地に」――こう歌ったように、それは日本の誇りであり、同時に日本の満州支配の象徴でもあったのです。

 

 日露戦争の結果、日本はポーツマス講和条約で、ロシア領である樺太の南半分と、ロシアが南満州に持っていた権益をそのまま譲り受けました。一つはロシアが靖国から借りていた租借地、旅順大連のある遼東半島であり、もう一つが長春旅順間の束滴鉄道で、その一切の支線と、これに付属する財産、炭鉱の播営権も獲得しました。日本は満鉄という半官半民の会社を作って、鉄道の経営に当たりましたが、これが資源の乏しい日本にとっては「宝の山」だったのです。撫順炭鉱の石炭埋蔵量は何と十億㌧です。大正八年に出た「満鉄十年史」は、「一日一万噸、一箇年三百噸採掘するも尚三百年の命脈を保有し得べき東洋1の大炭坑なり。実に我が帝国の一大宝庫なりとす」 と、手放しの興奮ぶりです。

 

 正直いって、日本はこれで満足していればよかったのです。講和条約で得た正当な権利ですから、どこからも文句をつけられる筋合いはありません。ところが満鉄は、単なる鉄道会社ではありませんでした。この鉄道で沿線地域を支配し、さらにそれを広げることを目的とした国策会社だったのです。発足当時千百㌔だった営業路線は、昭和二十年の敗戦の時には十倍の一万一千㌔にもなっていました。鉄道経営の他に鉱業、電気、水道など多くの兼業を許されていましたから、関連事業は多岐にわたり、あらゆる事業を一手に握って満州の経済を独占する。文字通り一大コンツェルンを形成していたのです。しかも、在留邦人のための教育、医療も委託されていましたから、小学校も全て満鉄で作ってしまい、学校の先生も満鉄社員です。敗戦の時の社員は総数四十万人、そのうち日本人社員が約十四万人だったといいますが、まさに「満鉄王国」でした。

 

 この「満鉄王国」の青写真を作ったのが、やがて初代満鉄総裁となる後藤新平です。日露講和条約の調印は明治三十八年九月五日ですが、実はその前日、台湾総督府民政長官の後藤が、満州軍総参謀長の児玉源太郎大将を秘かに満州の奉天に訪ねているのです。児玉は出征中も台湾総督を兼務したままで、児玉・後藤による台湾統治は七年半にも及んでいましたが、日露戦争が終わった直後の、この後藤の満州訪問台湾コンビの満州での再会は一体何だったのでしょうか。ヒントの一つが、「平民宰相」といわれた原敬の日記に書いてあります。「原敬日記」は明治、大正の政治史を知る上で大変貴重な資料ですが、それによると、後藤は桂太郎首相の依頼で、長州出身の児玉に次の内閣を担当する意思があるかどうか、確かめに行ったというのです。

 

 政友会の実力者である原は、戦後の政権授受について桂と秘密交渉を重ね、政友会が桂内閣を支持すること、講和後は政友会総裁の西園寺公望を後継首相とすることこの時すでに、こういう密約を結んでいたのです。この密約の背景には、桂首相にとって、ロシアとの講和条件がかなり厳しいものになりそうだとの認識があったからです。戦争に勝っても、果たして領土を取れるのか、賠償金を取れるのか。結果如何では国内の激しい反発が予想されました。桂としてはたとえ講和交渉を纏めても、すんなり議会を乗り切るには、どうしても議会第一党である政友会の支持が必要だったのです。そこで桂は、旅順攻略に目鼻がついた三十七年十二月八日、原と第一回会談をしたのを皮切りに、四回も会談して政友会の協力を求めたのですが、原が何と答えたのかというと、「政府の決心一尺ならば、我も一尺。政府一丈ならば我も一丈なるべし」。つまり、政府の決心次第だよ、西園寺に政権を譲るのなら、政友会はたとえどんな講和条件になっても率先賛成すると、原は桂に政権譲渡を迫ったのです。

 

 こうしてポーツマスでまだ講和交渉が進められていた三十八年八月二十二日、桂は講和成立後の適当な時期に辞任することを約束していました。西園寺の方も九月二日の政友会の会合で、この時は講和条約の内容が新聞各紙で報道され、日本国内が「屈辱講和だ」と、講和反対で騒然としている時でしたが、西園寺は 「今後戦争を継続するも、得る所は失う所を償うに足りない。講和成立こそ最も時を得たもの」こう言って桂内閣支持を表明していたのです。ですから、原が後藤の満州訪問を「後継首相問題」と日記に書いたのは、桂がこの期に及んで後藤を児玉の所へやったりして、まだグラついている。腹立たしい思いがあったのでしょう。

 

 桂という人は「調整の名人」と言われたくらい、四方丸く収めることを政治借条としてきた人です。明治十八年に内閣制度がスタートして以来、首相の座は薩長でほとんど独占してきたのに、長州閥以外に、それも政党に政権を渡そうというのです。円満な政権交代には、満州軍総参謀長として武勲を立て、長州閥の有力な首相候補である児玉の意向を、まず確かめておきたかったのだと思います。

 

 しかし、満州での後藤の行動を見ると、後藤の本当の目的は、桂に頼まれたのを利用して、戦後の満州をどうするか、児玉と話し合うことだったようです。後藤は桂首相に、児玉に首相になる意思がないことを報告すると、その足で満州視察旅行に出かけていますが、すでに七月、「満州経営策梗概」という満州経営についての腹案を児玉に届けていたのです。それは「戦後満州経営唯一の要訣は、陽に鉄道経営の仮面を装い、陰に百般の施設を実行するにあり」こういう書き出しで始まっていますが、満州経営に絶対に欠かせない大切なことは、表向きは鉄道経営の仮面をつけ、その裏であらゆることをやってしまうことだ。租借地の統治機関と、獲得した鉄道の経営機関とは全く別個のものとすること、鉄道の経常機関は鉄道以外はいささかも政治的、軍事的なことに関係しないように見せなければならない、とも書いています。この腹案こそ、国策会社満鉄の方向を決めたものであり、日本の満州経営は、児玉・後藤という台湾コンビのプランによって進められることになるのです。

 

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「満州 日米対立の火種」講演録全文
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「満州 日米対立の火種」配布資料(メモ)
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「満州 日米対立の火種」配布資料(年表)
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