硫黄島を攻略した米軍は、息もつかせずに沖縄へ進攻して来ました。昭和二十年三月二十六日、沖縄本島の西測にある慶良間列島に上陸して来たのです。翌日の二十七日夜には、関門海峡に一千個の機雷が投下され、長距離爆撃機B29による機雷作戦も始まりました。米軍は「飢餓作戦」、「日本を飢えさせる作戦」と名付け.....(続きはこちら)
三年九か月余りにわたった太平洋戦争で、沖縄は日本本土では唯一戦場となった島でした。それは、海軍部隊の指揮官大田実少将が打った有名な電報、「沖縄県民斯ク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」。この言葉に象徴されているように、沖縄戦の特徴は、第一に、島民が軍の指揮下に置かれて戦闘に組み込まれ.....(続きはこちら)
沖縄の戦いが絶望的になつてきた昭和二十年六月になると、「一億特攻」、こんな活字が新聞紙面に躍るようになりました。陸軍はすでに四月二十日、 「皇土決戦訓」を全軍に布告して、「本土決戦」を声高に唱えるようになっていました。 いま「皇土」なんて聞いても、何のことか首をかしげる方もいらっしゃると思い ますが、国土、日本本土のことで.....(続きはこちら)
これからお話する「ポツダム会談へ向けて」、その話の舞台となるポツダムはドイツ東部、ベルリンの南西にある工業都市で、サンスーシ宮殿などドイツ帝国時 代の多くの離宮、別荘が、世界遺産に指定されていいることでも知られていますが、ここに米英ソ三国の首脳、トルーマン、チャーチル、スターリンが集まり、ポ ツダム会談が開かれたのは、六十六年前の昭和二十年七月十七日でした.....(続きはこちら)
ベルリン郊外のポツダムに米英ソ三国の首脳、トルーマン、チャーチル、スターリンが集まり、ポツダム会談が始まったのは、六十六年前の昭和二十年七月十 七日でした。二十六日の夜には、日本に対する最後通告として「ポツダム宣言」が発表されたのですが、全部で十三項目から成り、繰り返し降伏を要求してはいる ものの、日本側にとって戦争終結の核心である天皇制....(続きはこちら)
広島にとって運命の日、昭和二十年八月六日は朝から快晴、澄み切った空には真夏の陽光が輝いていました。今年もそうですが、この年も台風の当たり年で、八月だけでも八個発生し、そのうち五個が本土に上陸または接近、広島も四日までは、硫黄島南方洋上に発生した台風八号の影響で雨模様だったのです。台風が 朝鮮半島へ抜けた五日から天候は回復し、それまで異様に低かった気温も真夏の暑さに戻っていました.....(続きはこちら)
昭和ニ十年八同十五日の正午、あの「終戦」の玉音放送を聞いた時、国民はみんな「ああ、負けたんだ。これで戦争は終わったんだ」。そう思ったのではないでしょうか。朝からジリジリするほど暑い日で、ラジオは繰り返し「正午の玉音放送」を予告していました。六日の広島への原爆、九日にはソ連が日ソ中立条約を破って満州へ一斉に攻め込んで来ましたし.....(続きはこちら)
三年八か月余りにわたった太平洋戦争は、昭和二十年八月十五日、「聖断」とい う天皇の決断によって、大きな混乱もなく終わらせることが出来ました。もし遅れて米軍の本土上陸作戦が始まっていたら、国民は否応なしに本土決戦に巻き込 まれ、その死者は莫大な数にのぼっていたでしょうし、国土も完全に破壊されていたでしょう.....(続きはこちら)
日本の終戦を決めた歴史的な御前会議は、昭和二十年八月十四日午前十時五十分から、宮中の地下防空壕で開かれました。それにしても、 ここまで来るのに、何と時間のかかったことでしょうか。内大臣の木戸幸一は、戦後GHQ連合軍総司令部の「日本の終戦努力を通じて、最も重大と感じた時機はいつか」。この質問に対して「八月十二日から十五日迄の間、殊に十三日なりき」と答えています.....(続きはこちら)
きょうは、日露戦争に勝利した日本が、なぜ四十年の間に敗戦の運命を迎えな ければならなかったのか。日露戦争と太平洋戦争では、一I体何が違ったのか。こ の二つの戦争を対比しながら、検証してみたいと思います。
三年八か月にわたった太平洋戦争は、昭和二十年八月十五日、軍部が叫んでい た「本土決戦、一億玉砕」にならずに、聖断という天皇の決断によって終わらせることが出来ました.....(続きはこちら)